駐在員・事務局員日記

理事長ブログ第20回「シリア難民 それぞれの選択」

2015年09月10日  会長ブログ
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執筆者

AAR理事長
長 有紀枝(おさ ゆきえ)

2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授。2010年4月より立教大学社会学部教授。

記事掲載時のプロフィールです

AAR理事長、長有紀枝のブログです。

関東地方・東北地方一部で記録的な大雨により、甚大な被害が発生しています。私事ですが、出身地の茨城県旧石下町(現・常総市石下地区)では、鬼怒川の堤防が決壊、津波と見まごうばかりの映像が報道されています。親族・友人・知人の住む町です。
被害を受けておられるすべての方々にお見舞い申し上げます。濁流の中の家屋で救助を待つ方々のご無事の救助・避難と被害がこれ以上広がらないことをただただ祈ります。

Borders Kill

セルビアにて撮影

ドイツをはじめとする欧州各国に向けて避難するシリア難民が連日大きく報道されています。先週、私もAARがトルコのシリア国境近くの村で運営を開始したシリア難民向けの2つ目のコミュニティセンターの開所式に出席するため、そしてトルコに滞在中のシリア難民の現況を把握するため、トルコの南東部、シリア国境近くにあるAARの事務所と事業地を訪問していました。

そして、帰路、短い滞在でしたが、昔の赴任地セルビアのベオグラードを訪ねました。今年は、ボスニア・ヘルツェゴビナで発生した「スレブレニツァの虐殺」から20年(第17回ブログ「スレブレニツァから20年―2015年7月11日に」ご参照)。ベオグラードにいる加害者側の関係者に話を聞くための訪問でした。
しかしここは折しも、トルコから海路でギリシャにわたり、マケドニアを通過し、ハンガリー経由でドイツや他のEU諸国に向かおうとするシリア難民のまさに通過点。中央駅を中心に大変な数のシリア難民が溢れていました。

トルコの国境近くにある2つのAARの事務所。治安の関係から所在地や詳細な活動報告は控えてきましたが、日本人職員が、トルコ人とシリア難民の現地職員とともに、シリアの難民や国内避難民に対して、食糧支援や、トルコで生活していくために必要なトルコ語講座などを実施しています。

しかしここでも、そして、近隣にある国際NGOの事務所でも、ここ数ヵ月で大きな変化が表れたといいます。職員として雇用していたシリア難民の若者が突如退職し、危険を冒してドイツをはじめとするEU諸国を目指す、というのです。
「海を渡るのは危険すぎる」と必死で説得するAARの日本人職員に「危険かもしれないし、命を失うかもしれないけれど、ここで将来の展望もないまま暮らすよりは夢にかけてみたい」。今回の出張で、何度も耳にした言葉です。

しかしながら、言うまでもなく、すべてのシリア難民がEUを目指しているわけでも、目指せるわけでもありません。難民になるには体力がいります。海を渡り、閉ざされた国境を越えるには、密航・密出国業者に支払うまとまった外貨(ユーロやドル)の現金も必要です。
トルコにとどまる選択をする、あるいはそうするしかないシリア難民の数もはかりしれません。避難途中に地雷で足を失ったり、突然の攻撃や爆弾により負傷した方々もいます。これらの方々の事情は、本HPのシリア難民支援活動ニュースでもぜひご覧ください。

そのために、AARでは、トルコ語教室や難民の方々が孤立せず、暮らしていけるようなコミュニティセンターづくり、障がいのある方々への物資の支援や理学療法などを実施しています。

そしてもう一つの選択が、戦火の収まらない祖国シリアに帰る、というものです。国境近くにいる難民の方々、特に男性が帰還の前に一時的に祖国に戻る、というのが様々な地域でよくあるケースです。地元の様子を見に、家族を連れて帰還ができるかどうか状況を確かめに、残してきた家屋をチェックするために。もちろん、戦火や難民となった事情が改善した後に、祖国に戻る、というのは難民問題の最善の解決策です。

しかし、現在の状況でシリアに戻る、というのは全く別の選択です。シリア難民のAARの理学療法士とともに訪れたアブドゥルサラムさん一家。アブドゥルサラムさんは7ヵ月ほど前、羊の世話をしている最中の爆撃で左半身に大けがを負ったといいます。九死に一生を得、妻と生後間もない赤ちゃんと3人でトルコに避難したものの、生活はぎりぎりです。AARの理学療法のおかげで、一切曲がらなかった左ひじと左ひざが、曲がるようになったと感謝の言葉をいただきましたが、「来週にはシリアに帰る」と。ひとえに、トルコで避難生活を続ける金銭的余裕がないためです。「ここでは死ねない」と薄暗い部屋を見渡します。「シリアに戻れば死ぬかもしれないけれど、ここよりはまし。どうせ死ぬなら、祖国で、自分の家で死にたい」。床に敷かれた薄い毛布と少しの食器、それ以外の家財道具の一切ない、がらんどうの、典型的な困窮している難民のお宅。思わず奥さまの顔を見ると、力のない笑顔を向けながら風邪をひいた赤ちゃんをあやし続けています。

八方塞がりの中、トルコにとどまる人、死ぬなら故国でとシリアに戻る人、同じ死ぬなら一筋の希望に命をかけるとEUを目指す人。三者三様の、命をかけた究極の選択です。改めて、どれほどに「普通の人」の「普通の生活」が根底から破壊されたのか、どれほど「死」と隣り合わせの生活を誰もが送っているのか、を思い知らさました。

こんな中で私たちに、日本に何ができるでしょうか?

シリアにとどまっている人、トルコをはじめ近隣に逃れた人に対しては、引き続き、日本政府が直接、国連経由で、そして私たちのような、直接日本の顔が見えるNGOを通じて、支援の継続や強化が決定的に重要です。

そして、第3国へ逃れる人は、ドイツをはじめとするEUが受け入れ策を模索しています。現地で話を聞いた限りでは、地理的に遠く、言葉の問題もあり、親族や知人がいるわけでもない日本は、たとえ日本政府が受け入れを表明したとしても、希望者は決して多くないのではないかと思います。他方で、真剣に日本行きの可能性を聞いてきたイラク難民の方がいました。小学生の娘さんが難病に冒され、失明。バグダッドの病院で脳の腫瘍の摘出手術を受けたけれど視力は回復しない。日本で治療を受けることができたら視力が回復するかもしれない、とお母さんが必死に訴えてこられました。地雷で足を失い身動きのできない方々もいます。欧州諸国と異なり、大量のシリア難民の受け入れが困難であるならば、人道的な見地から、こうした病気やけが、障がいなどで特に困難な状況にあるシリア難民の方々を優先的に受け入れるなどの方策は立てることが可能ではないでしょうか。

他方で、もっとも恒久的な解決策は、シリアに平和が戻ることです。そしてこのシリアの和平に、アメリカの同盟国としてではなく、日本が独自の立場で、何らかの役割を果たすことができないか、こちらも八方塞がりの中ではありますが、切実に思います。
シリア紛争に終わりは見えません。別の機会にご報告したいと思いますが地雷の問題も再燃しています。そしてトルコの治安の悪化も懸念されます。膨大なニーズのある中で、いつまで、どの時点まで、私たちは安全を確保しつつ支援活動が継続できるのか。
日本人職員と現地職員双方の安全確保に努めつつ、細心の注意を払って情勢を見極めていきたいと思います。

さて、ここで一度、シリア難民の話題は終わります。ここからは別の話題。お差し支えなければ覧いただければと思います。

EU諸国では、日本と同じ敗戦国ドイツがシリア難民受入れで大きな存在感を示しています。ナチスドイツのユダヤ人大虐殺という過去から学び、また少子高齢化にも備え大胆な選択、目先の判断ではない「大きなそろばんをはじいた」との評価もあります。同時にドイツは隣国との和解も進めてきました。北東アジアで日本が、隣人たちとの間で70年前のイメージに苦しめられているのとはあまりに対照的です。近隣諸国との和解をもっと別の形で進めることができていれば、安全保障に対する備えも考え方も、今とは違ったものとなっていたのではないでしょうか。

そしてもう一つ、今回の出張で忘れられない出来事がありました。コミュニティセンターの開所式。来賓のスピーチで、出席くださったシャンルウルファ県の副知事が、2011年11月、ワン県の地震被災者支援の最中に、宿泊先のホテルの倒壊で他界した宮崎淳さんのことに触れてくださいました。「私たちは、宮崎さんの人柄を忘れないし、功績を忘れない、そして何より、一番困難な状況にあった時、宗教の違いを超えて、「クルバン・バイラム」(犠牲祭)の時に、地震で被害を受け、先の見えないテント生活を余儀なくされた人たちに牛を購入し肉を配ってくれたことを忘れない」、と言ってくださいました。日本でいうお正月のように、一年でもっとも重要なお祭りに欠かせない肉を配ったことを覚えていてくださったのです。この感謝の言葉は、近く、宮崎さんの墓前に報告したいと思います。
(2015年9月10日)

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