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第4回沖縄平和賞 受賞者あいさつ

11月7日(金) 於万国津梁館

認定NPO法人 難民を助ける会
常任理事(前理事長) 柳瀬 房子
理事長 長(おさ)有紀枝による受賞記念講演 『国際協力と平和』はこちらをご覧ください。
スーダン南部で採取した生活・飲用の水
授賞式にて挨拶する常任理事の柳瀬房子

ただ今、第4回沖縄平和賞を賜りましたこと、大変ありがたく、心から感謝いたしております。仲井真弘多(なかいま ひろかず)知事をはじめとする沖縄県民、そして選考委員のみなさまに厚く御礼申し上げます。
またケニア共和国、ペルー、ボツワナ共和国大使閣下にもご列席いただき、心から御礼申し上げます。

私は、柳瀬房子と申します。難民を助ける会の創立者である相馬雪香会長と共に、理事長として30年近く会の事実上の責任者を、この6月まで、担ってまいりました。難民を助ける会は、あと数日で、30年目の活動に入ります。この間の活動を評価していただけたわけですから、個人的にも、とても嬉しく、肩の荷をひとつ降ろしたような気がいたしております。

難民を助ける会の活動については、このあと、私の後任である長 有紀枝理事長がお話申し上げますので、私は、沖縄と私の出会いに関わる3人の方についてお話し、本日のご挨拶にかえさせていただきたいと思います。

先ずは、末次一郎先生です。末次先生については、ご列席のみなさまの多くがご存知かとは思います。

早稲田大学の総長であった大浜信泉(おおはまのぶもと)先生、沖縄協会の専務理事でいらした吉田嗣延(よしだしえん)先生などとともに、沖縄の本土復帰に尽くされた方です。そしてまた、末次先生は、私ども難民を助ける会の創立メンバーの一人です。

2001年に亡くなられましたが、浦添に琉大の西村貞雄(にしむらさだお)教授が製作された末次先生の胸像がございます。ご列席の仲井真知事が、知事ご就任の前でしたが、末次先生を慕う方々を結集し、この胸像製作に当たられました。胸像には、当時の稲嶺恵一知事が末次先生のお名前を揮毫され、仲井真知事が「沖縄の本土復帰運動展開と実践」から「沖縄サミット」の実現まで、「沖縄に最大の関心と力を捧げられた」ことを説明パネルにお書きになっておられます。

昨日、私どもは浦添に再度訪問し、このたびの沖縄平和賞受賞のご報告をしてまいりました。生前、何十回もおめにかかり、人柄、お声にも触れ、文字通り叱咤激励された私でしたが、「沖縄平和賞、よかったね。長年ご苦労様」と、初めて褒めていただけたような気がいたしました。

私どもの相馬雪香会長、96歳の高齢のため本日は出席できませんでしたが、「日本人が古来持つ善意を世界に示そう」と、67歳で難民支援を呼びかけたとき、相談に行ったひとりが、末次先生で、「この運動には、私よりも国際赤十字でやってきた吹浦君がふさわしいでしょう」と設立準備段階から貼り付けてくださいました。吹浦は末次先生のもとで、28年間仕えつつ、難民を助ける会の活動にもあたりました。実は、私の主人でございます。

そして次にご紹介したいのは許世楷(きょせいかい)先生です。

この8月まで駐日台北経済文化代表処長、これは大使に相当する役職ですが、奥様のこととともに許世楷先生のことも忘れられません。大使は、早稲田や東大で学位をとられ、長らく津田塾大学の教授をしておられた方です。奥さまも留学生として来日された,著名な児童文学者です。

ご夫妻は、台湾は自由と民主主義を掲げた独立国になるべきだと主張され、このため30年以上にわたり、祖国に帰ることが認められなかったのです。

その間、ご夫妻は、しばしば、与那国島を訪れ、111キロ先の生まれ故郷・台湾を眺めては、祖国独立を夢見、歯を食いしばって涙したと聞いております。与那国の西崎(いりざき)の岬はご承知のように、日本の最西端です。許世楷大使は日本にとって台湾と沖縄の関係は、日本の安全保障の面でのみならず、経済や文化の面での交流においても重要であるとし、地域間交流の拡大に努めて来られました。

昨今、私は特に、沖縄と台湾とが地理的に近接していることの+−を真剣に考えております。
プラスは近接する利点を生かして、与那国町がその典型でしょうが、辺境の地を外国との交流の最前線にしようという前向きの動きです。私は昨年、先島のいくつかを2度にわたって訪問する機会があり、多少、先島のことを学ばせていただきました。先島の人たちがその地理的特殊性を生かして、台湾との特別の交流を試みている「挑戦マインド」は、きっと尊敬する末次先生も「すばらしいことだ」と評価なさると確信します。
他方、心配なのは、地球の温暖化に伴い熱帯性の感染症、例えば、昨年台湾で千人以上が感染し、25人もが亡くなったデング熱、そしてマラリアといった蚊が媒介する病気や新型ウィルスの脅威に沖縄県の方々がさらされているのではないかということです。

そうした問題に対応するためにも、私は少なくとも人道的課題や環境・衛生分野では、許世楷先生がおっしゃるように、日本と台湾、沖縄と台湾は、もっともっと緊密な地域関係を構築する必要があるように思います。

そして、3人目は稲福恵子さんという私の個人的な友人のことです。
もう、半世紀前のことです。私も恵子さんも10歳。「小学5年生」という雑誌に私の書いた作文が、掲載されました。日本中からお手紙をいただきました。
その中に薄いブルーの封筒で、赤と青の縁取りがされたエアメイルがありました。
そのお手紙の主が、沖縄県久米島の稲福恵子さんでした。琉球郵便と書かれたきれいな切手は、今も忘れられません。
ある日、届いたお手紙には、「台風で、稲が全滅です」と記されていました。「大変、お米をおくりましょう」と、今から考えますと、子供の作った荷物です、せいぜい5キロ、多くて、10キロくらいかと思いますが。荷物を作り、近所の郵便局にふうふう言って、持っていきました。
「中身は何ですか」と問われ、「お米です」と私、「沖縄にお米は送れないんだよ」という答えに、送る理由を説明しました。「今度だけ、内緒で特別に送ってあげるね」と郵便局のおじさんの特別な計らいで、無事に久米島にお米を届けていただきました。

恵子さんと共に仲間智秀校長先生からもお礼のお手紙が届きました。
そして後日、黒砂糖の大きな塊が届けられました。私も学校に持っていって、クラスメイトと共に、沖縄からの珍しい届け物に感動を分かちました。
その後、文通は絶えましたが、私にとっては初めて触れた沖縄で、忘れられない思い出です。沖縄返還、台風、米軍基地問題など、沖縄のことが新聞やテレビで報道されるたびに、私は恵子さんのことを思い出していました。

今、早稲田大学の教授で沖縄学の専門家である稲福恵子先生が、そのご本人かと思い、お電話差し上げたところ、まったくの別人でしたが、それがご縁で、その先生とも親しくなってしまいました。

恵子さんに、今回の平和賞をぜひ報告したくて、ようやく伝をたどり、久米島の美崎小学校の卒業生であることが確認できました。ご実家と思われるお家にもお電話をいたしたのですが、「振り込め詐欺」まちがえられ、「恵子さんは、今どちらに」と訊くだけで電話を切られてしまいました。いつか、あなたとの出会いで沖縄を強く意識することになったよと。ご対面を果たしたいと思っております。

子供のころからの、多くの沖縄の方々との良い出会いが、人生を充実させ、私を変えるひとつとなりました。
末次一郎先生、許世楷先生、そして、稲福恵子さん、こうした方々との出会いは私の人生の宝物です。

本日は、東京から、古くからのメンバーを中心に、仲間が一緒に参席させていただきました。一人一人が、長年の活動を振り返り、思いひとしおの感があるのではないでしょうか。それぞれが、難民を助ける会の活動に、そしてできれば沖縄と今後どのように関わっていったら、この賞にふさわしい生き方ができるのか、大きな課題としてそれぞれの宿題となったと思います。

改めて沖縄の皆様の大きな心に感謝し、難民を助ける会のさらなる活動をご指導、ご鞭撻くださることをみなさまにお願いし、ご挨拶といたします。

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