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【寄稿】NHK大河ドラマ「いだてん」、「吹浦青年」の物語|吹浦忠正(AAR特別顧問)

2020年01月06日  お知らせその他
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明けましておめでとうございます。ことしもAAR Japan[難民を助ける会]をよろしくお願いいたします。

 難民を助ける会には40年前の創立準備会から関わってきましたが、いまは月々の常任理事会に出て、特別顧問として最少限?発言させていただいている程度です。ボランティアやスタッフのみなさんの努力が長年の実績と相俟って、大きな社会的存在となってきているように思えるのが嬉しいです。

 さて、昨年は、NHK大河ドラマ「いだてん~オリンピック噺」に関わったことで、年末年始、さまざまな問い合わせや大小の反響があり、苦笑しています。視聴率6%程度ですから、そんなに影響があるわけがないとタカをくくっていたところ、再放送や、BSで何度も放送されているので、実際には1千万人くらいは見た計算になるのだそうで、叱咤激励、質問反論、過剰評価などいろいろございました。

1964年、東京オリンピック開会式時に、スーツを着てメガネをかけ、吹浦忠正AAR特別顧問がカメラに向かい立っている。背後には観客席が写る

1964年、東京オリンピック開会式にて。吹浦忠正(AAR特別顧問)

 NPO法人世界の国旗・国歌研究協会共同代表、NPO法人ユーラシア21研究所理事長などとしてよく各地をまわり、さまざまなテーマで講演する機会は多いのですが、4,5年前、福岡での麻生太郎副総理の後援会で「世界の国旗・日本の国旗」と題して話をしたとき、1,700人もの方々がお聴きくださったのが、これまでの最大多数のお客様だったのです。しかし、それと比較してもTVの影響力というものはその7千倍くらいにもなるのですから、驚いてしまいます。このため、なんとなんと、世間をいろいろ騒がせているようです。

 番組冒頭のクレジットには「国旗考証」としてずうっと名前が出ていたのですが、最後の4週は、須藤蓮くんという、「(自称)私とよく似た、若手イケメン俳優」が演じてくれ、番組の責任者からは「NHK大河ドラマに存命中の人が出るのはあなたが最初なので、番組終了までは元気でいてくださいね」と冗談を言われ、まじめな私は即刻、人間ドックに行った次第でした。そのせいか? きょう、令和2(2020)年元旦を元気に迎えることができました。

 実は、2年以上前、この番組のディレクターやプロデューサーに4回に分けて長時間の取材を受けました。なぜかというと、1964年の東京オリンピック当時、組織委員会の事務局にいて、あのオリンピックを実体験として語れる人が、もう、あの人、この人と指折り数えるほどしかおらず、当時も今も、私はその最年少なのです。私は早稲田大学の2年生の秋から約2年余、競技部式典課というところで、国旗担当専門職員として勤務しました。

 それはこんな経緯からです。ある日、「いだてん」後半の主役である田畑政治(まさじ)事務総長から連絡があり、「キミは国旗の専門家だそうだな。本も出しているんだってね。会いたいな。明日2時に組織委に来れんかな。1時半に大学正門前に車を付けるから、いいね」。

 今でいう「上から目線」の話。好奇心たっぷりで生意気盛りの私は、献血運動で忙しかったが、とにかく話は聞いてみよう、と生まれて初めて黒塗りの自動車というものに乗り込みました。組織委は、東京五輪開会の少し前まで、今の迎賓館、旧赤坂離宮にあったのです。以前は国立国会図書館がここにあり、何度か通ったことはあるのですが、それなりに緊張して玄関を通りました。ちなみに、今では世界文化遺産。補修されて一層キラキラと輝き、国宝にも指定されている西洋建築物です。

 田畑事務総長が口火を切りました。
「キミ、今度のオリンピックに来る選手団でイギリスの国旗<ユニオンジャック>が付いている旗を使うのはどんな国があるかね」
生意気盛りの(お年頃の)私はとても素直な気持ちになれない。
「?(こんな常識みたいなことを訊くのか、と不愉快に思いつつ)、バハマ、バルバドス、バーミューダ、北ローデシアにローデシア、そして香港かな」
というと、今度は向こうが、
「?(なんだそれは)」
と顔を顰める。
「もちろん、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、南アもそうですし、そうそう、ハワイの州旗も竿側(カン)上部(トン)に<ユニオンジャック>を配していますね」
「もういい。とにかく正しい国旗を正しく揚げてくれたまえ」

 面接は1,2分で終わりました。しかし、この後、田畑はジャカルタでの第4回アジア競技大会に向かい、台湾、イスラエルの取り扱いを巡って混乱する中、最後は派遣団の判断で、日本選手団は「参加」を決めて、IOCの怒りを買い、あわや東京オリンピックは返上かという事態になりました。そこで、日本は津島寿一選手団長(組織委会長)と田畑のクビを差し出して、大会を護ったというのが真相です。
「大河ドラマ」では、「政界の寝業師」とされ、「政治の一寸先は闇」のメイ言で知られる川島正二郎を浅野忠信が実にうまく演じ、これでは川島のご遺族や自民党には気の毒とさえ思いました。私もオリンピックで使用する「日の丸」のことで、「川島の紹介だ」と怒鳴り込んできた右翼がいましたので、少しでしたが縁があった政治家でした。
 
 閑話休題。聖火リレー、開閉会式、表彰式、国旗・国歌を担当する式典課は、赤坂離宮2階正面の花鳥の間というところにありました。そこで私は100近い参加予定国(地域。現在は206)の旗について、内外16の文献と、在京大使館、外務省などからの資料や情報を比較検討し、各国旗別に仕様書を製作しました。デザインと製造法を指示する書類です。そして、これを掲揚目的別にサイズを決め、必要枚数を確定し、3つのロットに分け、入札によって発注したのです。

 1964年の東京オリンピックの開会式に実際に参加したのは94ヵ国でした。インドネシア選手団は羽田空港まで、北朝鮮選手団は万景(マンキョン)峰(ボ)号で新潟経由、九段の朝鮮総連ビルまで来ましたが、先のジャカルタでのトラブルで参加が認められず、帰国を余儀なくさせられました。女子800mで世界記録を持つ金辛丹選手は、先に脱北してソウルで暮らす父親と、15分足らず、同ビルで再会しました。村井順組織委事務次長(元警察庁警備局長で大会後は総合警備保障会社ALSOKを創立した人)のイキな計らいで実現したのでした。

 開会式の前日、10月9日は夕方から大嵐。「2年余りの準備が意味なく終わる」と「われら若者」は夜中まで「やけ酒」で泥酔。ところが午前2時過ぎ、表に出ると、月はなかったが満天の星。あの光景はいまでも忘れられません。そこからどうやって翌朝6時の集合時間に間に合わせて国立競技場に行ったのかはどうにも思い出せません。組織委のロッカーにしまっておいた制服を着ているところから見ると、岸記念体育館(原宿)に移っていた組織委に立ち寄ったはずですが、定かではありません。

 真っ青に晴れ渡った秋空のもと、国立競技場の式典本部前に着くと、「ふきうらぁ! おーい、旗屋!!」の声でやっと気づいたのでしたが、貴賓席に田畑政治前事務総長がひとり佇んで、じっとフィールドを眺めているのです。

 東京でのオリンピックに人生を賭けたこの人らしさに打たれました。勝手に開会式はなくなったと酒浸りした前夜を恥じました。後に知ったのですが、上空にあの五輪を描いた航空自衛隊のパイロットのうち、二人は、私たち同様「二日酔い」だったのです。少なくとも「酒気帯び」操縦。事前の訓練では一度も成功したことのなかったのが、本番で大成功。「終わりよければすべてよし」などと言ってはいけない話で、これは後に、NHKの「プロジェクトX」でも取り上げられました。

 閉会式の朝、午前7時、私は選手村にザンビア選手団を訪ねました。この瞬間(ザンビア時間午前0時)、それまで北ローデシアの名で参加していたザンビアが独立したのです。「いだてん」では組織委は何も準備もしていなかったように描かれていましたが、あれは、クドカン(宮藤官九郎)さんの創作です。ザンビアの独立は早くからははっきりしていましたから、国旗やプラカードはすべて準備し、選手村には新国旗を届けに行き、同時に、選手村をはじめ、国立競技場その他、全ての北ローデシアの旗を降納し、新国旗を掲揚したのでした。陸上自衛隊練馬師団、ボーイスカウト、ガールスカウト、スポーツ少年団がよく協力してくれました。

 オリンピックのさなかに国旗が変わるというのは他にもありました。1998年の長野冬季五輪の時です。難民を助ける会では対人地雷全面禁止運動に全力を尽くし、2月7日の開会式でクリス・ムーン(英国人、モザンビークで対人地雷の処理を指導中に誤って爆破、右の手足一部を失ったランナー)を聖火リレーの最終ランナーに登用する働きかけをして成功しましたが、組織委アドバイザーだった私は、ボスニアヘルツェゴビナの国旗のことで、直前まで、気が気でなかったのが真相です。

 1月30日の入村式で同国は、白地の中央に青い紋章を置いたデザインの旗を掲げ、「開会式までにはこの3案から1つを決める」というのです。仕方ないから3案全部の旗を必要枚数製作し、「どれでも来い」という気持ちでいました。2月5日になっても国旗決定の知らせがないので、ついに同国の副首相と連絡を取り、折り返し、「やっと決まった。これだ」と今のユニークな国旗になったことを知らせてきたのでした。

 話が進みすぎました。1964年の東京オリンピック当時は、冷戦の真っ盛り。2年前には「キューバ危機」がありましたし、大会期間中、ソ連空軍機は日本の領空付近を記録的な多さで巡航し、6日目には中国がアジアで初の核実験を行いました。こうした国々が平和を説くことに、私はどうしても違和感を持つのは同時代的に、冷戦の厳しい現実をたくさん経験してきたこともあるからかと思います。それでも東京オリンピックは大いに盛り上がり、「復興日本」を世界に発信することができました。私は幸いにも史上珍しく(ホントです!)、国旗で失敗しなかったオリンピックの開催に役割を果たすことができました。

 そして続いて開かれた「東京パラリンピック」。高校時代から大きな影響を受けた橋本祐子(さちこ)日赤本社青少年課長(ハシ先生)から、「オリンピックは終わったんでしょう。パラリンピックに来なさい」と声がかかりました。「車椅子の人たちは、日本に来ると言葉という新たな障がいを付加されるのよ」「日本語は世界に出たらあなたの秋田弁と同じ。全然通用しないでしょう!」という思いから、200人近い青年男女のボランティアを集め、各国語に分けて1年近く訓練していたのです。美智子妃も練習会場を周られて、叱咤激励してくださったのでした。

 美智子妃が「私はハシ先生の門下生」とおっしゃるくらい、お二人は頻繁な交流があったのでした。このパラリンピック大会中、皇后陛下(香淳皇后)が一度、お越しになられましたが、あとは、全日、皇太子殿下ご夫妻がお見えになられました。私が担当したのは「ハシ先生」の秘書役。「ボランティアは集めて、訓練して、適材を適所に配置することが肝腎」というのがハシ先生のボランティア活用論の基礎。私はその配置を担当する役に任ぜられました。

 病院、施設、家庭内にあって、車椅子を十分、操作できない選手も日本選手団にはいました。そんな中で、各国からのパラの選手の明るいこと。今では当たりまえですが、当時の私たちは圧倒される思いで、寄り添いました。パラリンピック当時、慶應大学で電子工学をやっていた丸山一郎くん(英語)は進路を変更し、渡米して障がい者問題を勉強、生涯をこの分野に捧げました。埼玉県立大学の創立者の一人となり、教授や学科長として、最期まで先駆者として走り続けたのでした。同大学に私を誘ってくれたのも丸山くんでしたが、十分な役割を果たせないまま2年半で去ったのは、今となっては慚愧の至りです。60代半ばで病に斃れましたが、亡くなる直前まで、難民を助ける会の依頼に応え、講演をしてくれました。

 吉田紗栄子さん(イタリア語)は日本女子大の建築科を出た一級建築士ですが、障がい者が住みやすい家の設計を、今日まで研究し続けています。郷農彬子さんは同じ大学の英文科の出ですが、妹さんともども、パラリンピックでは英語の通訳ボランティアとして、選手村での交流を担当していました。その後、国際会議・通訳・翻訳の会社バイリンガルグループを起て、車椅子バスケットボール連盟は長いこと、この会社の一隅に、事務所を置かせてもらっていました。

 このパラリンピックでの語学支援グループは後に正式に「日本赤十字社語学奉仕団」となって、なんと、今日まで継続して活動しています。「レガシー世代」は、次期パラリンピックで外国選手を家庭に招こうと、いろいろ策を練っているのです。

 私のその後については、難民を助ける会の創立40周年『日本初NGOを創った人たちの記録 次の10年に向けて』に仁平典宏東京大学准教授が聞き手になってまとめてくれているので、ご参照いただければ幸いです。

 1964年に東京オリンピックとパラリンピックに関われたのは、その後の人生に決定的な影響をもたらしました。あまざかる秋田の田舎からぽっと出の私に、世界を知らしめ、小学校4年生の時に気づいた北欧5ヵ国の国旗の共通性から始まった世界の国旗への関心を、1つの結晶にし、新たな研究と普及活動に転換させてくれました。

 いま、次期オリンピックを前に、新藤昌子(しょうこ)という、世界の約100ヵ国の国歌を原語で歌えるという方と組んで、東京都江東区の全70の小中学校をはじめ、北は札幌、南は北九州、長崎まで計100数十回の講演(公演?)に招かれました。「国旗を知ることはその国を理解する第一歩」との思いで、多くは無償で、各地をまわっています。去る11月には共著『オリンピックでよく見るよく聴く国旗と国歌 CD付』(三修社)を上梓しました。

 難民を助ける会の活動に40年、深く関わってきたのも、もとはといえば、国旗を通じての国際理解を図ろうという考えから始まったのでした。ハシ先生や相馬雪香初代会長とのことなどを思い浮かべています。

 きょうからの新しい年が、みなさまと世界の人々にとって、平和で幸せな年であることを祈念し、難民を助ける会へのさらなるご支援をお願いして、長 有紀枝理事長からの勧めに応じた拙文を終わりとします。ご精読ありがとうございます。

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