駐在員・事務局員日記

「私がAARを選んだ理由」吉川剛史 これから国際協力の分野を目指す人たちへ(19)

2018年05月30日  職員紹介
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執筆者

ウガンダ事務所駐在員
吉川 剛史(よしかわ たけふみ)

2016年9月よりウガンダ事務所で南スーダン難民支援事業を担当。大学で途上国開発・平和構築を専攻し、在学中にフィリピンでのボランティア活動、ボスニアのNGOや国内の難民支援NGOでインターンなどを経験。大学卒業後、総合商社で約3年間、食肉の輸入業務と国内販売業務に携わった後AARへ。趣味は読書と旅行。千葉県出身

記事掲載時のプロフィールです

AAR Japan[難民を助ける会]のスタッフがどんな想いで国際協力の世界に飛び込んだのかを紹介するこのコーナー。第19回はウガンダ駐在員の吉川剛史(たけふみ)です。スポーツが大好きだった少年が国際協力の仕事を志すに至ったきっかけや、これからの国際協力を担う若者へのメッセージを聞きました。(聞き手:広報・渉外担当 伊藤)

売春をしながら家族を支える少女との出会い

-国際協力に興味を持ったきっかけは?

高校時代に『トットちゃんとトットちゃんたち』という本を読みました。国連児童基金(UNICEF)親善大使の黒柳徹子さんが出会った、飢餓や戦禍、災害に苦しむ途上国の子どもたちのことが書かれているのですが、その中に、私と同じくらいの年のハイチ共和国の少女がいました。彼女は売春をして日銭を稼ぎながら家族を支えていたのです。本の中で、黒柳徹子さんが「エイズなどの感染症にかかる可能性があるのにその仕事を続けるの?」と聞くと、「先のことよりも今、自分の家族のために食べるものを買うお金が必要なんです」と答えていました。同じ時代に生まれながら、生まれた場所が違うというだけで、こんなにも厳しい環境にある子どもたちがいることに衝撃と怒りを覚えたのが、この世界に入ろうと思ったきっかけです。

ウガンダ駐在員の吉川剛史

「同じ時代に生まれながら、ハイチの少女はこんなにも自分と環境が違うのかと衝撃を受けました」(2018年5月)

「書を捨てよ、町へ出よう」

スウェーデン留学時代の吉川剛史とその友人たち

留学時代の仲間と(右から3人目が本人)

-では進学先も国際協力ができる大学に決めたのですか?

はい。国際協力の道に進むなら、国際色の豊かな大学に進もうと思いました。高校時代は遅刻もしょっちゅうで優等生とはかけ離れた存在でしたが、国際協力の道に進みたいという熱意が伝わった先生方のサポートもあり、なんとか希望する大学へ合格できました。大学ではさまざまな国の友人ができ、3年生のときには念願の留学が実現しました。留学先はスウェーデンの大学です。そこで途上国の開発や平和構築について学びました...と言ったら聞こえはいいですが、実際は教科書と講義中心の授業でつまらなかったんです。書物を読むだけなら日本にいてもできるなと考え、積極的に留学生やスウェーデンの人たちと交流することにしました。学校だけでなく、芝生の上でピクニックをしながら、または友人宅に集まって飲みながらディスカッション(笑)。ヨーロッパ的なものの考え方を知る良い機会になりました。留学時代に出会った友人たちとは、現在も良い付き合いが続いています。

ボスニアで見た国際協力の現実

ボスニアのNGOでインターンを経験する吉川剛史

ボスニアのNGOで民族融和イベントを手伝う本人(左端)

-留学後、すぐ日本に帰国したのですか?

当初は留学期間が終わる6月に帰国しようと思いましたが、せっかくなので見聞をさらに広めようと、留学時代の友人の出身地であるボスニア・ヘルツェゴビナへ寄ることにしました。ボスニアでは90年代に民族紛争により多くの人たちが犠牲になったため、民族融和を図ろうという動きが地元の人々の間でありました。友人の叔母さんが代表を務めるNGOでも、子どもたちの民族融和活動をしており、そこで1ヵ月間インターンをしました。首都サラエボは、セルビア人、ボスニア人の居住地域に分かれていましたが、イベントを通じてそれぞれの民族の子どもたちが自然に交流している様子を見て、民族融和事業の可能性を実感しました。一方、地方ではどんな活動をしているのか知りたくて、地方都市のスレブレニツァへ行きました。大量虐殺があったことでも有名な同市では、国際協力機構(JICA)が農業を通じた支援活動を行っていて、そこでも1ヵ月間インターンをさせてもらいました。農業を通じて民族融和の仕組みを作るという事業そのものには大きな魅力を感じながらも、以前は働き者だったというボスニア人たちが支援に依存して労働意欲が下がっている状況に疑問を感じたり、国連やヨーロッパからの支援も民族によって偏りがあるように感じたことから、国際協力以外の世界を見てみようという思いが強くなりました。そこで帰国後、難民支援団体でのインターンなどをしながら、就職活動を行いました。

企業人として途上国支援を目指すも

卒業後、日本の商社に勤めた吉川剛史

就職した先でも、先輩、同期、得意先などでさまざまな出会いに恵まれました(中央が本人)

-就職先に商社を選んだのは?

ボスニアでの経験から、農業を通じた途上国支援に関心があり、それを実現できそうな企業をあたりました。就職したのは総合商社で、食料品関係の投資も積極的に行う会社でした。私はその食料関連部門を希望していたのですが、実際に配属されたのは食肉部門でした。商社で学んだことは多く、今の駐在員の仕事にも活きています。例えば現在の仕事ではウガンダ政府関係者、国連、ほかのNGOなどと交渉を行うことが多いのですが、相手を尊重しながらも要求をしっかり通す、というようなやり方は商社の先輩方に鍛えていただいたなと思っています。けれども、食肉部門の取り引き先は先進国が中心で、企業としてのアフリカ進出も、まだまだ実現が難しそうでした。その中で営利を追求する企業の目標と、お金儲けにあまり興味がない自分の目標が次第に合わなくなり、3年3ヵ月で退職しました。

-転職先になぜAARを選んだのでしょうか?

(AAR理事長・長有紀枝著の)『スレブレニツァ』を読んだときにAARのことを知りました。それ以来、AARのイベントにときどき参加するようになりました。AARのスタッフに知り合いがいたことや、AARがトルコで行っているシリア難民の民族融和事業に関心があったことから、AARの門を叩きました。

ハエがたかるトイレ、通学に片道2時間、それでも

-初の赴任先はトルコでなくウガンダでしたね。

初めてのウガンダ、初めて経験する難民支援でした。最初は難民の方々に対して「弱い人々」というある種の先入観があったのですが、実際に彼らと接するうちに、困難な環境の中にも陽気でたくましく、「今の状況を少しでもよくしよう」と意欲的に生きる姿に触れ、難民に対するイメージが覆されました。

一方で、ウガンダでは日本で仕事をしていたころのようにはスムーズに物ごとが運びませんし、習慣の違いもあり戸惑うことも多かったです。けれども仕事がうまくいかず落ち込んだときにも、難民の子どもたちが難民キャンプの学校で一生懸命勉強したり歌を歌う姿に元気をもらっています。学校といっても、AARが作ったテント張りの仮設校舎です。48平方メートル(約14畳)の大きさの教室に、100人を超える子どもたちがぎっしりと座り、日中は40度にもなる酷暑の中で一生懸命勉強しているんです。もちろんエアコンや扇風機なんかはありません。トイレは尋常でない数のハエがたかっていて、学校に通うには片道2時間近くもかかる。そんな過酷な状況の中、AARの配った通学カバンを大事そうに抱えながら学校に通う子どもたちのために、微力ながら貢献できたらと思っています。

南スーダンの少女に文房具を手渡す吉川

「子どもたちの一生懸命学ぶ姿に励まされます」(2018年2月 ウガンダのビディビディ難民居住地にて)

自身の世界を広げる努力と、我が道を行く強さを

-これから国際協力の仕事を目指す学生へのアドバイスを。

私もまだまだ勉強中で、今後の道を模索しながら活動していますからあまり偉そうなことは言えないのですが、自身の世界を広げようと意識することや、こうと決めたら周囲に何を言われても自分の意志を通すことが大切だと思います。
そもそも私が国際協力に興味を持ったのは本との出会いでした。それに加えて日本の大学や留学先で出会った先生や友人、ボスニアで見聞きしたことや商社で教えてもらったことなどがあって今の道を選んでいると思います。国際協力に限らず、自分なりにやりたいことを見つけるためにはその材料集めから始めた方がいいのかなと思います。
もう一つ、やりたいことを決めたら誰に何と言われても突き進むことも大切です。例えば私が商社を辞めるときに反対した人は、賛成してくれる人より圧倒的に多かったです。それでも自分の人生は結局自分のものですから、国際協力に限った話ではありませんが、決断するときには、自分の意思を最優先にするのが良いのかなと思います。
外の世界に出て体験し、敬意を持ちながらも率直に、かつ楽しく沢山の人と交流しながら世界を広げ、自分がやりたいと思った道に突き進んでください。

意気込みを語る吉川剛史

「苛酷な状況の中で生きる難民の子どもたちのために、これからも微力ながら貢献したい」(2018年5月)

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