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AAR創立40周年、相馬雪香前会長の10回目の命日に寄せて(上)

2018年11月01日  日本

AARの東京事務所で撮影。後方では職員がパソコンに向かって仕事をしています

AAR会長の柳瀬房子

「あれから40年!」。現在のAAR職員の半分は、創立時(1979年)以降に生まれています。創設者の相馬雪香先生(1912~2008)が、ご健在だったら、「今時の若者、捨てたものではないわよね!」と言われるのではないでしょうか。

私は父母の次に相馬先生から大きな影響を受けました。身体は小柄で華奢と思いきや、しっかりとした骨格をお持ちでした。そしてその体躯は精神にも現れており、気品があり、鋭い判断力をお持ちで、自分には勿論、誰に対しても厳しく、頑固で、追及の手を緩めない。取材に来た人を「また泣かせてしまったの。あなた、ちょっと何とかしておいてね!」と何度頼まれたことか...。AARに関わることになり、私の人生は一変しました。

相馬前会長と著者の柳瀬が並んでいます

相馬雪香前会長(左)と著者(右)(1980年頃)

初代事務局長となった父・柳瀬真は相馬先生と旧知でした。創立時に会に場所を提供し、半年後に他界。そこで30歳になったばかりの私が事務局長に任命された時には本当に戸惑いました。その後約10年間は、事務所は実家の離れでした。文字通り嵐の中に小舟を漕ぎ出した、名ばかりの市民団体です。公的な補助金も助成金も何もない時代で、家内工業のような始まりでした。「私にできることは電話番」などと、甘えたことは言っておれませんでした。

助けを求めて来会されるラオス、ベトナム、カンボジアの難民の方々、国内外で活動をしたいと相談にこられる老若男女(美男美女?)。特に思い出すのは、昼夜を問わず門をたたくマスメディアの記者の方。しかし、その新聞、ラジオ、TVのおかげで会は成長いたしました。ここに改めて深謝いたします。

終日鳴り響く電話。段ボールにぎっしり詰まった現金書留が毎日届けられ...。思い出すだけでも目が回りそうです。若かったから、幼子を抱えながら何とか活動できたのでしょう。

何十人ものボランティアの方が入れ替わり立ち替わり、すべてアナログの時代の中で相馬先生は「会の顔」でした。国際協力の専門家は吹浦忠正特別顧問(元副会長、当時37歳)のみ。既に豊富な経験とその幅広い人脈で活動・運営を支えました。また勤務先の日赤看護短大の学生さんにも大変助けていただきました。日々の事務は相馬会長の母校の「常磐会」(学習院華族女学校中・高の同窓会)のおばさま方が担ってくださいました。大勢の姑に囲まれた昔の嫁(?)のように苦労しました。そして娘が在学していた大岡山小学校のPTA仲間に「助けてー!」とお願いすると、近所から駆けつけてくださり、大量のDMの宛名書き(中には毛筆での方も)やそろばん弾き、ついでに子どもの面倒も見ていただきました。この皆さんの助けがなかったら、いくら相馬先生が「難民のためーッ」と声を大にして叫んだとしても、会は継続しなかったと思います。
AARには「手を貸そう」という方々に、支えられる魅力があったのですね。(続編につづく)

【報告者】 記事掲載時のプロフィールです

 AAR会長 柳瀬 房子

1979年からAARで活動を始め、専務理事・事務局長を経て2000年11月から2008年6月よりAAR理事長。2009年6月より会長。1996年より対人地雷廃絶キャンペーン絵本『地雷ではなく花をください』を執筆し、同年、多年にわたる国際協力活動により、外務大臣表彰を受ける。1997年には、『地雷ではなく花をください』により日本絵本読者賞を受賞。

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