プレスリリース・お知らせ

長有紀枝 第4回沖縄平和賞 受賞記念講演 『国際協力と平和』

2008年11月12日  お知らせ
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2008年11月7日(金) 於万国津梁館

認定NPO法人 難民を助ける会
理事長 長 有紀枝(おさ ゆきえ)

仲井眞 弘多沖縄県知事ならびに沖縄平和賞の創設者である稲嶺恵一前知事、沖縄平和賞選考委員のみなさま、そして何よりも沖縄県民のみなさま、その理念と意義から日本のノーベル平和賞にたとえることもできる「沖縄平和賞」の第4回受賞者に私ども難民を助ける会をご選出いただき、衷心より御礼申し上げます。

またケニア共和国、ペルー、ボツワナ共和国大使閣下はじめご列席のみなさま、沖縄県在住の当会の会員、支援者の皆さま、ご参列いただき、心から御礼申し上げます。

講演に先立ちまして、この8月に、アフガニスタンで第1回の沖縄平和賞受賞者である「ペシャワール会」の伊藤和也さんを襲った悲劇を思い起こし、その献身的な活動に改めまして敬意を払いますとともに、そのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

また、ここ沖縄では、先の太平洋戦争の過酷な地上戦で、20万人あまりの方々が命を落としています。平和を希求し、平和な世界に生きることを切望しながら、それが叶えられず、亡くなられた大勢の沖縄の皆さんのご冥福をお祈り申し上げます。同時に、本日の受賞式をこの会場のどこかで見守っているかもしれない平和を切望された沖縄戦の犠牲者の皆さまに、改めまして、私ども難民を助ける会の受賞のご報告を、感謝とともにさせていただきたいと思います。

私ども難民を助ける会も、1979年の創設以来、今日までの30年間に、難民支援活動の途上、3名が、かけがえのない命を落としました。1985年にザンビアで脳性マラリアを発症された古賀繁さん、同年にジンバブエで交通事故に遭われた荒井久治さん、2001年にザンビアで脳性マラリアに罹患し、帰国途中の香港で亡くなった隈井美佳さん。その生前の活動に、改めて心から敬意を表し、そのご冥福をお祈りしますとともに、本日の受賞を報告したいと思います。

さて本日は、「国際協力と平和」という題名でお話をさせていただきたいと思いますが、この講演に先立ちまして、今回の沖縄平和賞の副賞をどのように使用させていただくか、未来に向けたお話をさせていただきたいと思います。

1. 私たちのこれからの活動―副賞の使途

今回、私たち難民を助ける会は、ご自身の、そしてご先祖の体験から、身をもって、平和の尊さを実感し、心から平和を希求する方々の血税やご寄付に支えられた副賞1千万円を頂戴いたしました。その責任の重さに身が震える思いでおります。

私たちは、すべての人が自己の尊厳を守りながら、人間らしく生きる社会こそが平和の象徴であると考え、この貴重な賞金で5つの「沖縄平和賞記念プログラム」を実施いたします。

まず、難民を助ける会が活動しているアジア地域― ミャンマー(ビルマ)、ラオス、アフガニスタン、タジキスタンで、それぞれ「沖縄平和賞記念プログラム」と冠した4つの障害者自立支援事業を行います。

さらに、アジア(カンボジア、アフガニスタン、ミャンマーなど)とアフリカ(アンゴラ、ウガンダ、スーダンなど)の地雷原に暮らす地雷被害者の方々を結び、声なき声を吸い上げ、同時に平和の尊さを世界に向けて発信してもらうための、世界的な地雷被害者のネットワークの構築を目指します。

そしてこうした活動を通じて、私たち難民を助ける会は、日々の、国際協力活動の中で沖縄の皆さまの平和への思いを発信してまいりたいと思います。

2. はじめに―難民を助ける会の創設の精神と平和

では私たち難民を助ける会は、どういう背景や経験をもって、今お話しましたような使途に副賞を使わせていただくにいたったのでしょうか。

本日はこうした点を皆さまにご理解いただくためにも、「国際協力と平和」と題したお話をさせていただきたいと思います。

さて、皆さまは、「国際協力」(「国際協力」と一口に申しましても、医療支援や、食料、水の支援、地雷の除去、地雷原に暮らす人々が地雷の事故にあわないようにするための教育や情報伝達、学校の建設、井戸や道路などのインフラ支援、人権を擁護する活動、様々な人材育成、農業や漁業の支援、法制度支援・・・まだまだいろいろな分野がございますが、こうした「国際協力」)と「平和」は、イコールである、もしくは直結しているとお考えになりますでしょうか?

もしそうであるならば、沖縄平和賞受賞者による記念講演の演題が「国際協力と平和」であることを、奇異に感じられたかもしれません。確かに広い意味では、私たちNGOが行っている国際協力は、平和を希求するものであり、平和の構築を目指すものであり、平和に寄与するためのものです。

しかし、国際協力の現場、緊急援助の現場は、必ずしもその活動が平和に直結しているわけではありません。国際協力、食糧や水などの支援・援助が続くことで、人々の命は永らえることができます。しかし、援助だけでは紛争を解決し、平和を取り戻すことはできません。それどころか、あとでお話しますように、私たちの援助が紛争を長引かせ、または、紛争を悪化させ、時に援助が紛争の火種になることさえあります。

実は、国際協力と平和は、必ずしも常につながっているものではないのです。真の意味で平和に寄与する国際協力活動を行うのは、実際には大変難しい、至難の業でもあります。

こうした状況を踏まえ、本日は、まず第一点めとして、難民を助ける会の活動の原点である、相馬雪香の創設の精神をご紹介し、次に、私ども難民を助ける会が、国際協力活動、具体的には、難民支援や地雷対策、障害者支援ですが、これらと、平和を結びつけるために、どのような努力や活動を行ってきたのか、私どもの活動を時系列的にご紹介させていただきます。

難民を助ける会は、1979年に尾崎咢堂の三女相馬雪香が、(現在96歳でございますが)、67歳の時に、設立いたしました。相馬の父、尾崎咢堂は75歳の時(1933年)、遊説中にひどい風邪にかかり、その病床で「自分はこれまで何をやってきたのか」と自省し、「人生の本舞台は常に将来に在り」という言葉を残しています。この言葉を実践するかのように、相馬は67歳で難民を助ける会を設立したのです。

ベトナム、ラオス、カンボジアを襲ったインドシナ紛争で発生した沢山の難民の方々が、1970年代末、陸路、危険な地雷原や国境をこえて、あるいは小船に乗り、ボートピープルとして、隣国タイや日本をはじめとする国々に流れ着いたときに、日本は国際社会から批判にさらされました。「カネ」は出すが「ヒト」は出さない日本、難民に冷たい日本、そうした批判です。

これに憤った、相馬雪香が、こうした批判に対抗して、日本人が古来受け継いできた善意の伝統(と、申しますと、何か難しいものに思えるかもしれませんが、ごく普通に私たちが口にする)、「困ったときはお互い様」の発想を、自分の身近な人だけではなくて、水知らずの難民の人々にも広げよう、伝えようとして、できたのが、難民を助ける会です。

同時に、相馬の心にあったのは、生粋の平和主義者であり、太平洋戦争の勃発に身を挺して反対し続けた父、尾崎咢堂から受け継いだ平和思想や、反戦論でもあります。

それは、日本が世界から孤立し、太平洋戦争への道をたどる要因の一つとなったという危機感から、「日本を再び世界から孤立させ、世界の孤児にしてはいけない」という思いであり、難民支援を通じ、日本人の内向きの心を外に向けて開国させてもらおう、日本人の心に「他者との共生」「ともいき」という思想を植えつけてもらおうという思いであります。

相馬は同時に、よく、日本の島国根性を地中海のマルタ島のような島国根性に変えてゆこう、という言葉も口にいたします。日本の島国根性とは、言うまでもなく、日本は海によって世界と断絶している、隔てられているという島国根性です。他方、マルタ島的な島国根性とは、「海を通じ、世界とつながっている」という徹底的に開放的な島国根性です。

この意味で実は、沖縄県は、日本の中で唯一、既にマルタ島的な"よき島国根性"を持ち続けてきた、歴史と伝統を持っているといえるかもしれません。そうした沖縄県から、相馬雪香が創設した難民を助ける会が、30周年の節目に沖縄平和賞を受賞させていただくということは、決して偶然ではないように思えるのです。

3. 難民を助ける会の活動と平和―1980年代

1979年創設以来、当初の15年間、マレーシアのビドン島、カンボジア、フィリピン、タイの難民キャンプなどで、インドシナ難民を支援いたしました。ザンビアなどアフリカでの活動も多くありましたが、やはり、難民を助ける会の大きな活動の柱は、日本に定住するインドシナ難民支援―ベトナム、ラオス、カンボジアからの難民の支援でした。

1992年に国内の難民支援を行う姉妹団体「さぽうと21」に活動を引き継ぐまでの13年間に、のべ920人の難民の高校生・大学生に一人平均6年間の支援を行って参りました。活動の資金は全て、日本の皆さまお一人おひとりから寄せられた浄財です。

この国内の活動は、奨学金の給付とカウンセラーによる相談業務が主ではございましたが、同時に、銭湯の入り方も知らない異国の難民学生さんに日本での暮らし方や普段別れて暮らす仲間と交流を深めてもらうための「がんばれ難民の集い」と題した夏季合宿、冬季のスキー合宿、運動会、サッカー大会を、日本人のボランティアが中心となり毎年開催いたしました。

これらの行事は一義的には、日本人と難民、あるいは難民同士の交流を深めるために行われましたが、同時に平和や共生、ともいき、という観点からも重要な使命を果たしたと考えます。

インドシナ3国は、フランスの植民地でしたが、フランスは長く、ベトナム人を管理者とする植民地経営を行いました。その結果、カンボジアやラオスの人々は、本来であればフランスに対して恨みをもつ事柄でも、間接的な支配者であるフランス人ではなくて、直接の支配者である、ベトナム人に対して悪感情を持つにいたりました。これは在日の難民でも同じことです。当初は、日本にいる難民の方々の間でも敵対心は強く、基本的には没交渉、接点があっても、一触即発状態が度々あったと聞いています。

難民を助ける会が行った合宿においても同様です。当初は、ベトナム人とラオス人、カンボジア人の部屋を意識的に分け、区別し、できる限り接触を避ける努力も払われたと聞いています。しかし同時に、難民を助ける会では、そうした垣根を取り払う努力もいたしました。難民を助ける会の合宿は、決して共生を、強制的に行ったわけではありません。

しかし年に何度も何度も、同じ釜の飯を食べ、ともに汗を流すうちに、徐々に、個人と個人の交流が生まれ、そして最初の合宿以来26年間が経過した今年9月の合宿では、もはや、ベトナム人、カンボジア人、そうした区別さえありませんでした。男女の部屋は分けましたが、同じ部屋にカンボジア人とベトナム人がいても、口論になるような場面は一切なく、お互いの共通の悩みを語り合う場面も多く見られました。もちろん、インドシナ紛争から長い時間が経過し、世代が交代したことの結果であるかもしれません。しかし、難民を助ける会が続けてきた国内の難民支援は、まぎれもない平和を築く第一歩であったと思います。

4. 難民を助ける会の活動と平和―1990~2000年代

1990年代以降、難民を助ける会の活動の柱は、難民支援、障害者支援、地雷対策の3本となりました。もともとの緊急の難民支援に、障害者の自立支援、地雷対策が加わったものです。

障害者の自立支援は、実は難民を助ける会がその設立当初から力を注いだ分野でした。タイ・カンボジア国境の難民キャンプで私たちが出会ったのは、地雷で手足をなくした障害者でした。また私たちの活動は、常に活動資金の捻出との闘いではありましたから、限られた予算を最大限生かすために、もっとも困難な状況にある弱者の方々に対する支援を心がけました。結果として対象となったのは、障害をもった難民の方々です。支援の現場で私たちは、先天性の障害、ポリオなどの後遺症、あるいは地雷や不発弾など紛争中のケガによる障害者の方々が、その障害ゆえに、難民にさえなれず、命を落したり、より劣悪な状況に置かれることを知りました。(国境を越えて逃げなければ難民とは呼ばれません。国境を越えて逃げるには、体力や交通手段が必要なのです。)

難民を助ける会の障害者支援事業は、タイ・カンボジア国境の難民キャンプ「サイトII」で、カンボジア難民の地雷被害者支援として始まりました。カンボジアの和平成立後は、カンボジア国内に拠点を移し、さらには、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ自治州、アフガニスタン、タジキスタンに広がりました。

活動内容も、全寮制の職業訓練校の開設・運営、車椅子の製造と配布、理学療法施設の運営、義手・義足など義肢装具やその材料の支援、盲学校・聾唖学校・自閉症センター・精神遅滞児センター・精神障害施設の支援、四肢損傷者へのカウンセリングなど多岐に及びました。職業訓練校の指導科目も、国や地域、復興の程度、市場の情勢に応じ、ブリキ製品、籐細工、皮細工、養鶏、養蜂、バイクやテレビ・ラジオの修理、洋裁、理容と様々です。

こうした中で私たちは、障害者支援が、時に平和を作るどころか、戦争に寄与することも目の当たりにいたしました。私が赴任していたボスニア紛争時のことです。ベオグラードの義肢センターで、難民を助ける会が支援した被害者にリハビリ後の生活を尋ねたところ、「義足をつけて歩けるようになったら、ボスニアの前線に戻って、自分をこんな身体にした連中に復讐してやる」と断言しました。たまたま取材にきていた日本のメディアの方に、「難民を助ける会の義足支援は、兵士の再生産ではないのですか?」と問い詰められたことを、今でも鮮明に覚えています。

また、私たちが、対人地雷の被害の恐ろしさを知ってもらうために、東京で開催した、「NGO東京地雷会議」のために、地雷原から呼び寄せた被害者の男の子は、「僕は世界から地雷がなくなればいいなんて思わない。僕の身体をこんなふうにした地雷を埋めたやつらも、みんな、地雷を踏んで足をなくせばいい」と叫びました。

他方で、共生、平和を実感させられたのもこの障害者支援を通じてです。アルバニア人がセルビアからの独立を訴え、武力衝突寸前の状態にあった90年代のコソボ自治州では、域内のすべての学校が、セルビア人が運営するいわゆる公の学校と、これに対抗するアルバニア人が運営する、非公式の地下の学校とに二分されていたとき、唯一分離されずに残っていたのは、盲学校とろうあ学校でした。コソボ自治州内で唯一、この二つの学校で、敵対する二つの民族の子どもたちがともに学んでいました。

カンボジアの障害者のための職業訓練センターでは、敵同士であった、元ポルポト派の兵士と政府軍の兵士が、紛争終結後とはいえ、ともに寝起きし、車椅子の製造やテレビやバイクの修理技術を学び、社会復帰を果たしました。ミャンマー(ビルマ)の職業訓練センターにおいても、障害を負った元政府軍の兵士と、反政府軍の兵士がともに学び、理容師として再出発していきました。

これらは、私たちが、政治的に中立な日本のNGO団体だからこそ、実現できたことかもしれません。私たちは、障害を負った人々に、第二の人生を生きる糧のみではなく、敵と和解し許すこと ― これは口でいうのはたやすいことですが、実際は大変に難しいことです。自分の親や兄弟や家族、恋人や友人を殺した相手を許し、あるいはともに生きていくのです。―ですから、そこまでは無理であったとしても、その第一歩となる、コミュニケーションを再開する場を提供したのです。

もちろん、私たちは、障害者支援においてのみならず、緊急の難民支援の現場においても、「平和」を念頭に置いた活動を行ってまいりました。

1999年から2000年にかけて、コソボでは、アルバニア人とセルビア人のための民族融和事業を行いました。難民を助ける会の職員と日本から派遣したインターンの皆さんが、人口の9割近くを占める多数派アルバニア人地区のみならず、少数派セルビア人の居住区においても活動し、両者の接点をつくる活動、あるいは少数者のセルビア人の移動の安全を確保するためのエスコート事業などを行いました。NATO軍の空爆終了直後で、行政は完全にストップしています。紛争の傷跡のみならず、こうした行政の活動の停止から、州都プリシュティナでは、町中のいたるところにごみがあふれていました。特に、両方の民族が混住するアパートの周りで、そのゴミの状況はひどく、(片方の民族のみが住んでいる地域はそれぞれの住民が自ら清掃活動をしたのです)惨憺たる有様でした。

この惨状に着目した難民を助ける会の職員は、日本人が総出で、両方の民族に声をかけ、作業終了後には、おいしいお菓子や飲み物を出す、という宣伝して、大々的に清掃作業を行いました。最初はうさんくさそうに、遠巻きにしていたアパートの住民でしたが、最初はお菓子と、そして物珍しい外国人である日本人に釣られて、両方の民族の子どもたちが、そしてその母親たちが参加し、これに一人、またひとりと賛同者が増え、1日の終わりには、まったく接触のなかった二つの民族の住人が、コーラや菓子パン、チョコレートを食べながら、談笑する風景まで見られました。この方式は、現地で活動していた国連UNMIKからも高く評価され、特に両方の民族が混住する地域で積極的に採用されました。

地雷や不発弾の除去作業、そして、地雷の事故にあわないために、地雷回避教育も行いました。こうした誇れる実績とともに、他方で、コソボには苦い思い出もあります。危険な紛争直後の地域での活動には、安定した地域とは比べ物にならない資金が必要です。安全面を確保するための資金、定期連絡のための通信費、車両、平時の10倍以上する海外渡航保険などです。また、自分たちの体力以上の仕事を、現地のニーズを優先して開始し、活動を他の事業でも拡大していたため、東京本部の管理業務もうまく機能させることができませんでした。こうした限界と、おもに、資金の不足から、私たちは本来であれば5年10年と続けるべき「民族融和事業」をたった1年ほどで終了せねばならなくなりました。

難民を助ける会が撤退した翌日、コソボでは、難民を助ける会が始終、足を運んでいたセルビア人の村が焼き討ちにあい、私たちの支援者の多くが家を失ったという知らせを受けました。どの国際協力でも同様ですが、一度開始した事業には大きな責任が生じます。それが、平和を希求する民族融和事業であれば、なおさらです。コソボの撤退は、私たちの活動計画立案の上で大きな教訓となりました。

こうした教訓を生かし、現在、アフガニスタンとスーダンでは、長期的な視点をもった支援活動を展開中です。2001年に事務所を開設したアフガニスタンでは、北部で、地元のNGOと協力しつつ、障害者のためのリハビリ施設の運営を、カブールでは、子どもたちが地雷の事故にあわないための、教材作りや映画・ラジオの番組作りをしています。私たちが発信しているのは、一義的には、地雷の恐ろしさを訴え、地雷の事故から子どもたちが身を守るための教育です。しかし同時に、なぜ戦争が起き地雷が埋められたか、地雷の事故がなくなるためにいかに平和が必要か、現地の人々とともに発信し続けています。

2005年から活動を開始したスーダンは、アフリカ最長の内戦が戦われていた場所です。2005年1月にやっと南北和平合意が結ばれ、2011年には南部スーダンの独立の是非を問う国民投票が予定されています。20年を超える戦火に見舞われた地域で、私たちは、南北和平締結後のスーダンの安定化のため、2011年のこの国民投票を一つの目標地点として、井戸掘削などの水資源の供給、マラリア対策、地雷対策を実施しています。

スーダン内戦は、表面的には、北の政府軍と南の反政府軍との間で戦われた紛争です。しかし同時に、南部人同士でも、部族間で、貴重な水資源をめぐり、または牛の所有をめぐり、紛争が繰り返されてきました。スーダン内戦を構成していたのは、政府対反政府軍の争いだけではないのです。難民を助ける会の水の供給は、命の水を帰還民に提供するのみならず、新たな紛争を防ぐ、平和を定着させる支援でもあります。

紛争直後の地域の井戸の掘削事業では、特にその掘削地の選定が決定的に重要です。地元の人々を巻き込まず、援助をする側が勝手に行う井戸掘りでは、井戸のメンテナンス、維持は期待できず、また、場所によっては、地元の人々の対立を生み、戦争の火種になることさえあるからです。他方で、地元の人々や、地元の行政(スーダンの場合は郡役場)と、事業の立案段階から積極的に話し合い、井戸の掘削候補地を選定すれば、井戸掘削が争いの種になることはありません。また、難民を助ける会が掘った井戸が、村の人々により、永く大切に利用してもらえるよう、まず、やっと湧き出た水の水質検査を行い安全な水であることを確認した上で、村人たちに水管理委員会を結成してもらいます。そして井戸の維持管理方法について講習会を開き、井戸が末永く、平和の象徴として村人自身の手で、維持・運営されるよう、支援しています。

現在、南部スーダンの事業を統括している難民を助ける会の名取郁子は、「南部スーダンのような、ないないづくしの環境で生活してみると、「誰もひとりでは生きられない」という言葉がわざとらしくなく、本当に素直にひびいてくる」と語っています。22年の内戦が終わって、なにもない故郷にそれでも自分の国に住みたいと帰ってきた沢山の人々。それまで難民キャンプで離れ離れに暮らしていた家族や親戚が、祖国でようやく再会し、一緒に暮らしはじめています。こうした帰還民にとって、水は、ふるさとに定住するための、絶対条件です。難民を助ける会の井戸支援は、人々の命の糧になるばかりでなく、平和の象徴となり、また同時に、「人は一人では生きられない」ということを実感する機会を提供するものとなります。

「共生」、「ともいき」の思想の前提は、この名取のいう、「人は一人では生きられない」という言葉にあるのではないでしょうか。この言葉は、言い換えれば、「人は協力しあわなければ生きられない」というまさに平和のメッセージであるからです。

「共生」、「ともいき」。口にするのは簡単ですが、実践は大変難しいものです。

生まれも育ちも、考え方も、肌の色も異なる人と、ともに生きていくことは、妥協やあきらめ、痛み、犠牲を伴う、実は大変勇気のいる作業です。

難民を助ける会は、この11月から設立30年目の活動に入ります。その節目に、沖縄の皆さまから「沖縄平和賞」という大切な賞と、お気持ちがつまった多額の副賞を頂戴いたしました。私たちは、沖縄の皆さまからいただいた評価、そして平和に対する言葉に尽くせないほどの思いをしっかりと受け止め、そのご期待に応えられるよう、「共生」「ともいき」を実践しながら、これからも着実に活動を続けてまいりたいと思います。

私たちのこうした活動は今後2年間、折にふれ、様々な形でご報告させていただきたいと思います。この度は本当にありがとうございます。

2008年11月7日
理事長 長 有紀枝

長 有紀枝(おさ・ゆきえ)

63年東京に生まれ、茨城県で育つ。早稲田大学政治経済学政治学科卒業。外資系銀行に勤務後復学、早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。外資系企業に勤務しつつ、1990年より難民を助ける会にてボランティアを開始、91年より、AARの専従職員となる。

旧ユーゴ駐在代表、常務理事・事務局次長を経て、専務理事・事務局長(00~03年)。この間紛争下の 緊急人道支援や、地雷対策、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の地雷廃絶活動に携わる。

2004年より東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム博士課程に在籍し、07年博士号取得。06年7月より(特活)ジャパン・プラットフォーム(JPF)代表理事。東京大学大学院、青山学院大学大学院等で教鞭もとる。

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