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ミャンマー:職業訓練校で取り戻した自信

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AAR Japan[難民を助ける会]は、ミャンマーのヤンゴンで、障がい者のための職業訓練校を運営しています。訓練校には洋裁、美容理容、コンピューターの3つのコースがあり、訓練生が卒業後に社会的・経済的に自立できるよう支援しています。
この春訓練校を卒業したエイ・スェ・ウーさんは、15歳のときに事故に遭い右肘先を切断しました。洋裁やファッションに興味があり、2015年1月、訓練校の洋裁基礎コースへ入学したエイさん。
彼女に、これまでの彼女自身のこと、そして今の思いを聞きました。

「障がいがあってもできることがあると伝えたい」

私は学校を中退した後、家計を助けるために、家の畑仕事を手伝っていました。その後、14歳のとき、自宅から離れた場所にある織物工場で仕事が見つかり、住み込みで働き始めました。1年以上経ったある日、工場で停電があり、そのとき私はいつもの通り機械の掃除をしていました。電気が戻った瞬間、突然機械が動き出して、右手がモーターに巻き込まれていきました。誰かが機械の電源を切るのを忘れていたことが原因でした。すぐに機械が止まりましたが、巻き込まれてしまった右肘の先はひどい痛みでした。病院までは遠い距離でしたが、工場の人が車で運んでくれました。2時間ぐらいでたどり着きましたが、血がたくさん出ていて死んでしまうかもしれないと思ったのを覚えています。

病院で応急処置をしてもらい、右腕のひじから先を切断しなければいけないと言われました。ショックでした。当時、未成年で保護者の同意がないと切断する手術ができなかったので、母が病院に到着して、手術を受けたのは事故の2日後でした。退院して実家へ戻ったあとは、辛くて家族にも友だちにも、誰にも会いたくありませんでした。実家では、両親と祖母、親せきのおばさんと一緒に住んでいました。自分の部屋に引きこもるようになり、食事は母が部屋へ運んでくれました。私の村では、ご飯は手で食べます。利き手の右手を失った私は、初めはご飯もうまく食べられず、ご飯が床にこぼれ落ちたり口の周りについたりしてしまうたびに悲しくなりました。もう私は何もできないと思い、人生の希望が無くなったような気持ちでした。私は今まで障がい者にあったことがなかったので、障がいがあるのは私一人だと感じていました。母が部屋に閉じこもったままの私を心配して、部屋にラジオを置いてくれて、ときどき聞いていました。母と祖母以外とは話すこともなく、部屋の中だけで過ごす日々が2年間続きました。

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右ひじで定規を押さえて作業しています(2017年3月7日)

ある日、ラジオからAARの職業訓練校のことが流れてきました。障がい者のための職業訓練校の案内を聞いて、自分以外にも障がい者がいて、技術を身につけられると知り、私にも、障がいがあってもできることがあるかもしれないと希望が出てきて、初めて明るい気持ちになりました。すぐに訓練校に応募したいと思いましたが、左手では電話番号をうまく書き留めることができず、放送は終わってしまいました。それからはラジオをずっと聞いていて、訓練校のことが流れるたびに電話番号を覚えて、忘れないうちに左手で少しずつ書き留めました。電話番号をすべて書き写すまでに、3ヵ月かかってしまいました。当時はまだ携帯電話が普及していなかったので、村を出て町の貸し電話屋さんまで行きました。しかし番号が間違っていたため、その場で電話番号サービスに問い合わせて、ようやく訓練校に電話をかけることができました。訓練校に応募したいと伝えましたが、申込書が必要で、応募書類は手元にはありませんでした。事情を話すと、洋裁コースの先生につないでくれて、先生が応募用紙の項目を電話で聞き取って書き写してくれました。その後、書類選考と面接に合格することができて、2015年1月、18歳のときに訓練校の洋裁コースに入学することができました。初め、母は、私が一人でヤンゴンの訓練校の寮で生活することが心配で、入学することに反対していました。母を説得して、面接のときに母と姉妹が寮の様子を確認するためについて来てくれました。母は、寮規則がしっかりしていることを知ると安心して、入学を許してくれました。

多くの訓練生が、各コースで日々真剣に学んでいます(2017年4月1日)

入学した当初は、今まで知らなかった障がいがある人もいて、障がい者がたくさんいることに驚きました。重度の障がいや、いろいろな種類の障がいがある仲間と、料理や掃除を分担して寮で一緒に生活するうちに、私にもできることがたくさんあると嬉しくなりました。

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作業中、エイさんの顔には笑みも(2017年4月1日)

洋裁の授業では、今までミシンを使ったことがなかったので、利き手が使えないのにミシンを使うことができるのか不安でしたが、先生に教えてもらったので大丈夫でした。ただ、定規を生地に合わせて線を引いたり、待ち針で仮止めをしたり、ハサミを使ったりするのは慣れるのに時間がかかりました。失敗もあり、服の内側に入れる芯地を接着したら、しわができてしまったこともありました。授業の課題で、初めて自分でシャツを仕立てたときは本当にうれしかったです。自分でも洋裁の仕事ができるんだと実感がわきました。周りの人が自分よりも早く課題を終わらせるのを見て、もっと頑張ろうと思って授業を受けました。ほかには、毎朝の朝礼で聞いた、「生まれたときから障がいがある人もいること、障がいがあっても落ち込まず自信をもっていい」という話が心に残っています。

訓練校を卒業した後、訓練校の紹介で、ヤンゴンの洋裁店のアシスタントとして働き始めました。実家でお店を開きたいと思っていましたが、初めに経験を積みたいと思ったからです。家族で運営しているお店だったので、その家族のなかで生活もともにするのは少し大変でした。働いて7ヵ月経ったとき、家族から母の体調が良くないと連絡がありました。母のことが心配で、仕事を辞めて実家に帰ることにしました。母の病気は胃癌でした。実家でお店を開きましたが、私の村には人があまりいなかったことと、私の技術ではシンプルなシャツやスカートを作ることはできても、お客さんの希望に合わせたデザインで作ることができなかったことが理由で、あまりうまくいきませんでした。悩んでいたときに、訓練校が卒業生に送っているニュースレターで、洋裁技術を学びなおすために再履修できることを知り、また入学して勉強したいと思いました。母の体調が心配でしたが、相談すると賛成してくれました。母は私に、「技術をしっかり身につけて卒業して、しっかり働いて経験を積んできてほしい。私の体調を心配して戻ってこないで」と言ってくれました。

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職業訓練校の卒業式にて。エイさんとAARヤンゴン事務所の中川善雄(右)(2017年4月6日)

訓練校で洋裁技術を学び直すことができたので、以前学んだ基礎技術がしっかりと身に付き、新しいデザインも学んだので、より多くのお客さんの希望に応えることができるようになりました。4月6日に卒業した後は、卒業生のお店で働けることになりました。母が言ってくれた通り、実家には帰らずにこのまま働き始めます。3、4年間は働いて経験を積んで、技術を磨きたいと思っています。将来はさらに技術を磨いて、自分のお店を大きくして、自分の技術を教えられるようになりたいです。

訓練校に入学することができて自分に自信を持つことができました。卒業後に実家の周りの友達に会うと、みんな私が明るくなったことにとても驚いていました。私の村には、残念ながらまだ障がい者への差別や偏見があります。市場へ買い物に行ったとき、屋台で食べ物を買おうとしたら、障がいがあるので物乞いと思われて、手で払うようなしぐさをされて追い払われたこともあります。私も将来、訓練校で皆さんの支援を受けたように、ミャンマーの障がい者を支えて、障がいがあってもできることがあると伝えたいです。

AARは今後も、エイさんのように一人でも多くのミャンマーの障がいのある方が、自信を取り戻し、経済的に自立していけるよう、職業訓練校での支援を続けていきます。

【報告者】 記事掲載時のプロフィールです

ヤンゴン事務所 中川 善雄

2011年3月よりタジキスタン事務所、2013年10月よりミャンマー・パアン事務所での駐在を経て、2015年1月より同国ヤンゴン事務所駐在代表。大学卒業後、日本赤十字社で約5年間の勤務を経てAARへ。神奈川県出身

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