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ラオス:「息子は12歳で命を落としました」 今なお続く不発弾の被害

2013年02月14日  ラオス地雷対策
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1960~70年代のベトナム戦争とラオス内戦中、200万トン以上の爆弾を投下されたラオス。30%以上は爆発せず、村や山、畑など、あらゆる場所に不発弾として残されました。戦後、不発弾事故に遭った人は2万人以上にものぼり、2011年には、わかっているだけでも79名が負傷、20名が亡くなりました。被害者の半数以上は戦争と無関係の子どもたちです。AARは特に事故の多い北部シェンクワン県で、不発弾対策事業を行っています。昨年11月にラオスへ出張した東京事務局広報の松本夏季が、危険と隣り合わせで暮らす、シェンクワンの方々の日常を報告します。

毎日通っていた牧草地での事故

末の娘を抱くビアンさん

息子を亡くした悲しみを語るビアンさん。末の妹は、事故の少し前に生まれたばかりでした(2012年11月13日、シェンクワン県プークット郡)

「息子は、家の手伝いをよくしてくれる、とてもやさしい子でした。亡くなってからも、毎日思い出して悲しくなります」。12歳の息子、シビアンポーンくんを不発弾事故で亡くしたビアンさんは、家を訪れた私たちに、目に涙をためながら話してくれました。

事故は昨年6月、シビアンポーンくんが家族で飼っている牛に草を食べさせるために、村から1kmほどの牧草地に出かけたときに起こりました。牧草地は毎日通っていた場所です。事故の知らせを受けてお父さんとビアンさんが現場に駆け付けたときには、シビアンポーンくんはもう息絶えていました。

シビアンポーンくんの命を奪った不発弾はBLU26という型で、テニスボールくらいの大きさです。ビアンさんは、「気がつかずに踏んでしまったのか、どこかへ運ぼうとしたのか、もしかしたら遊んでいたのかもしれない」と言います。

不発弾事故に遭い命を落としたシビアンポーンくんの写真

ビアンさんは、不発弾事故で亡くなった息子のシビアンポーンくん(当時12歳)の写真を私たちに見せてくれました

シビアンポーンくんが事故に遭った牧草地

シビアンポーンくんが事故に遭った場所(左端はシェンクワン事務所駐在員の安藤典子、左から2人目は現地職員のトンロー)

日常生活に潜む危険

倉庫の前に転がるクラスター爆弾の薬莢

訪問した家では、子どもたちが遊ぶすぐ脇に、クラスター爆弾の薬莢が転がっていました(2012年11月9日、シェンクワン県ペック郡)

不発弾による事故は、日常生活のごく身近な場面で起こります。ゴミを庭で燃やした際に不発弾に着火してしまったり、畑を耕しているときに鍬があたって爆発することもあります。

別の日に訪問した家では、すぐそばの草むらを指差しながら「その辺りはまだ処理されてなくて危ないから、入らないでね」と注意されることもありました。すぐそばに不発弾があるかもしれないという恐怖を感じると同時に、世間話をするような口調にとても驚きました。シェンクワンの方々がいかに危険な日常を送っているか、身を持って感じた出来事でした。

今、取り組まなければならない問題

ラオス政府は関係団体や国際社会と協力して不発弾の除去に取り組んでいますが、 未調査の土地がまだ87,000平方キロメートル(国土の37%)もあると言われています。ラオスの人々にとっては、戦争はまだ終わっていません。

病院から遠く離れた村落部では、事故の直後に応急処置を受けることができずに、出血多量などで亡くなる方が多くいます。まずは事故を回避できるよう知識を持つこと、そして事故に遭ってしまった際にはすぐに治療を受けることが救命につながります。AARは2010年にシェンクワン県に事務所を設立して以来、医療従事者と村人への応急処置研修や、不発弾の種類や危険性についての啓発活動を行っています。

村落保健ボランティアの研修を見守る安藤典子駐在員

「習ったことを生かして村人の命を守りたい」。AARによる村落保健ボランティアへの応急処置研修を熱心に受ける参加者たち。左は看護師の資格も持つ安藤駐在員(2012年11月14日)

応急処置研修のワークショップの様子

研修では、様々なけがを想定し、包帯の巻き方や止血方法などを実践を通して学んでもらいました(2012年11月14日)

シェンクワンの方々にとって、不発弾は決して過去のものではなく、今すぐに取り組まなければならない切実な問題です。危険にさらされた命を守る支援の必要性を痛感した今回の出張でした。

【報告者】 記事掲載時のプロフィールです

東京事務局 松本 夏季

2012年4月より東京事務局にて広報担当。大学卒業後、大学院在学中に国際機関でインターンとして勤務。大学院卒業後、AARへ

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