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12月3日国際障がい者デーに寄せて~AAR の障がい者支援~これまでとこれから

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12月3日は、国際障がい者デー。AAR Japan[難民を助ける会]では、1980年代から難民の中でも特に困難な状況におかれることが多い、障がいのある方々を支援してきました。現在も、障がいのある方々の経済的・精神的・社会的自立を支援する活動を通じて、国連の「障害者権利条約」にある、「障がいがあってもなくても、ともに支えあうことのできる」社会の実現を目指しています。
障がい分野プログラム・マネージャーの野際紗綾子が「AARの障がい者支援のこれまでとこれから」をお伝えするとともに、現在行っている障がい者支援活動と現場からの声をお届けします。

大勢の子どもたちがプラカードを持ち、言葉を発しながら歩く様子

「先生による入学手続きのサポートがあります」と書かれた紙を持ち、地域を練り歩く子どもたち。障がいのある子どもたちの就学を促すキャンペーンに積極的に取り組んでいます(2018年10月24日、カンボジア)

タイの難民キャンプからアジアの国々へ(1980年代~2000年代)

訓練校で開催された車いすリレーの様子

カンボジアでAAR が運営していた障がい者のための職業訓練校

1980年代のタイのカンボジア難民キャンプで、眼鏡や車いすなどの補助具を配付したことがAARの障がい者支援の始まりです。その後、カンボジアで1993年に障がい者のための職業訓練校、94年に車いす工房を開設。2001年にはラオスで車いすの製造・配付を開始するなど、中長期的な取り組みが始まりました。同時期に、ミャンマーでは障がい者のための職業訓練校を開設し、タジキスタンやアフガニスタンでは障がい者のためのリハビリテーション施設への支援を行いました。2006年12月に国連で障害者権利条約が採択され、各国政府の関心も高まる中、2000年代、AARはアジア地域を中心に職業訓練や就学支援など、障がい分野の活動を本格化しました。

災害時の障がい者支援に注力(2008年ミャンマーサイクロン~2018年西日本豪雨)

筆者の野際が、米や油などの食糧を配付する様子

サイクロンの被害の大きかったラプタ地区での食糧配付の様子(2008年9月)

2008年5月、ミャンマーを大型サイクロンが襲った際、軍事政権下のミャンマーで緊急支援を実施しました。現地入りした私が驚いたのは、「障がい者へは、緊急支援物資のみならず情報すら届いていません」という被災障がい者からのメッセージでした。
多くの方々からのご寄付に加え、ジャパン・プラットフォーム(JPF)からも助成金をいただきました。当時、JPFのガイドラインには被災障がい者に特化した支援は含まれていませんでしたが、現地の窮状をご理解いただき、障がいのある方々への大規模な支援を行うことができました。その後もインドネシア地震、パキスタン水害、東日本大震災、西日本豪雨などの災害が相次いでいますが、災害時の障がい者支援の必要性や重要性が理解されるようになってきています。

未来に向けた新たな動き(2013年~現在)

福祉施設の被災者の方にインタビューをする野際

東日本大震災の発災後、支援物資の配付とともに福祉施設の調査を行う野際(右)(2011年3月)

2013年からは、障がいの有無にかかわらず、すべての子どもが学校に通えるよう、カンボジアやタジキスタン、ハイチでインクルーシブ教育事業を実施。また、国内では東日本大震災や熊本地震などの被災地で、福祉施設の運営再開や販路拡大支援を行うとともに、平時からの防災対策を進めてきました。こうした活動について、アジア太平洋CBR(地域に根ざしたリハビリテーション)会議をはじめとする関連の国際会議や障がい分野の学会や関連誌においても発表し、現場の知見・経験を国内外に提言・発信する試みも続けています。

AARが目指す世界と果たすべき役割

2017年末に北京で開催された国際会議において、UNESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会)は、「アジア太平洋地域で、災害時の障がい者の死亡率は全体の死亡率の2~4倍である」と警鐘を鳴らしました。日本では、2016年に相模原障がい者殺傷事件、2018年には強制不妊訴訟などがニュースでも取り上げられましたが、これらはナチスドイツなどの優性思想が未だに過去のものではないことを示唆していないでしょうか。

こうした状況のなか、私たちにできることは何でしょう。2016年より、AARはJD(『日本障害者協議会』)に加盟し、多くの障がい当事者団体や専門団体とともに活動するようになりました。JDの企画委員として活動しながら考えるのは、AARは障がい分野の活動のみを行っている団体ではなく、東京本部に当事者職員が少ないといった課題もありますが、その専門団体ではないということが、逆に強みではないかということです。

なぜなら私たちは、これまでの国内外での活動を通じて、障がいの問題に関心のなかった人々(そこには私自身も含まれます)が障がいへの理解を深める過程を学んできているからです。その学びを活かし、障がいの有無に関わらず、すべての人に優しい世界の実現に向けて、私たちはこれからも活動を続け、発展させるよう、努力してまいります。

現場からの声をお届けします

「友だちができ、字が読めるようになりました」カンボジア ~教育支援~ソティアラくん(8歳)
足に障がいのあるソティアラくん。補助具を用いて学校に通い、校内で友だちと遊ぶ様子

笑顔のソティアラくんの周りには、いつも仲間が集まってきます(2017年11月)

生まれつき複数の障がいがあるソティアラくん(写真中央)は、両親が学校の障がい児の受け入れ態勢に不安を感じていたため、学校に通ったことがありませんでした。AARは、専門機関を通じて補装具やリハビリの機会を提供し、校内の敷地の舗装やトイレのバリアフリー化を働きかけました。教員や児童からの理解も得られ、今では毎日学校に通っています。友達ができ、学校が好きだというソティアラくんは、以前よりも発話が明確になり、文字が少しずつ読めるようになってきました。

「憧れの仕事に就くことができました」 ミャンマー ~就労支援~  ニン・ニン・イさん(19歳)
きれいな内装のサロンで、ニン・ニン・イさんがお客さんにシャンプーをしている様子

サロンに就職したニン・ニン・イさん(2018年10月)

ニン・ニン・イさんは生後10ヵ月のときに右腕を火傷して皮膚が癒着し、障がいが残ってしまいました。高校1年生のとき、働いて家族を支えるため休学し、AARの障がい者職業訓練校理容美容コースに入学。卒業後は日系美容サロンでアシスタントとして働いています。「訓練校で学んだおかげで、憧れていた美容の仕事に就くことができました。寮生活では、朝早く起きて掃除をするなど、時間を無駄にしない習慣が身に着きました。これからも多くの障がい者に訓練校で学んでほしいです」と話してくれました。

「毎日一生懸命お店を続けています」スーダン ~地雷被害者支援~ ハディージャさん
店には水色の棚があり、複数の雑貨が並べられています

ハディージャさんが経営する雑貨店。近くの雑貨店で取り扱っていない商品を仕入れるなど工夫を凝らしています(2018年2月)

5人の子どもを連れて隣村へ移動中、突然地雷が爆発し、3人の子どもを失ったハディージャさん(写真手前)。ハディージャさんとほかの2人の子どもは一命をとりとめたものの、大けがを負い、ハディージャさんのお腹と首の後ろには地雷の破片が残っています。事故後、夫が体調を崩し、他界。AARは、事故の影響で肉体労働が難しくなった身体でも続けられる雑貨店の経営をハディージャさんに勧め、開業を支援しました。ハディージャさんは、「夫を亡くし、どのように生計を立てたらよいかわからず、生きていく希望もなくしていました。今は、2人の子どもと一緒に何とかがんばりたいと考えられるようになり、毎日一生懸命お店を続けています」と話してくれました。

家庭訪問を通じて一家を支えています トルコ ~生活支援~ リームさん(13歳)、ラーマさん(11歳)
眼鏡をかけて満面の笑みをうかべる姉妹

眼鏡を受け取った姉妹(2018年2月)

リームさん(仮名)とラーマさん(仮名)は4年前にシリアから家族とトルコに逃れてきました。2人には視覚障がいがあり、20%ほどの視野しかありません。眼鏡が必要ですが、高額のため購入できずにいました。AARは、トルコ政府の社会保障制度の手続きを支援。2人は眼鏡をかけて生活できるようになりました。また、AARは、2人が学校に通えるよう手続きの支援を行いましたが、現在、再び通学できない状況にあります。ヘルニアを患い、身体を動かすことが困難な父親の仕事を手伝っているためです。AARは家庭訪問を続け、文房具の提供や病院を受診する際の送迎などの支援を続けています。

【報告者】 記事掲載時のプロフィールです

東京事務局 野際 紗綾子

2005年に入職後、東京事務局でミャンマーをはじめアジア地域事業を担当し、障がい者支援や緊急支援に従事。2009年より障害分野NGO 連絡会(JANNET)幹事、2015年よりアジア太平洋CBID(地域に根ざしたインクルーシブ開発)ネットワーク北東アジア役員、2016年より日本障害者協議会(JD)企画委員を務める。東京都出身

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