駐在員・事務局員日記

理事長ブログ第46回「創立40周年記念講演:40年、その先への挑戦にあたって(前編)」

2019年09月13日  理事長ブログ
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執筆者

長 有紀枝

2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授。2010年4月より立教大学社会学部教授(茨城県出身)

記事掲載時のプロフィールです

AAR理事長、長有紀枝のブログです。

 AAR Japan[難民を助ける会]は今年11月に創立から40年を迎えます。2019年6月22日、日本プレスセンタービル(東京都千代田区)にて、2019年度通常総会と記念イベント「40周年の集い」、懇親会を開催しました。「40周年の集い」での講演の内容を2回にわたりお届けします。

40年、その先の挑戦にあたって

 本日は40 周年記念総会にお出ましいただき、誠にありがとうございます。本日のお話のもともとのテーマは、「40 年、その先への挑戦」でした。しかしその挑戦の前に、「あたって」と改題して、AAR を取り巻く国際情勢や日本の立ち位置、日本のNGO が置かれた環境とAAR についてお話ししたいと思います。

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講演をするAAR理事長 長有紀枝

AAR を取り巻く国際情勢の変化

 AAR の設立は1979 年、昭和の時代です。それから平成・令和と三つの時代を経て来た訳ですが、国際的に見ても、この40 年は、大きな変化があった激動の時代でした。1979 年はまだ東西冷戦のただ中です。当時の紛争といえば、多くが国家間の紛争で、国連PKO (平和維持活動) は選挙監視などが中心の時代でした。1989 年に冷戦が終結し、紛争の形も変わりました。それまでの国家間の紛争から、民族紛争が多発した時代です。AAR の活動もアジア、アフリカから中東や東欧へも広がっていきます。

10名程度の難民の子どもたちと相馬が立っている集合写真

タイの難民キャンプを視察する相馬雪香前会長

 冷戦後の世界の変化は、国連の安全保障理事会に如実に表れています。それまで国連安保理の主な議題は国際的な安全保障のハードな部分が中心でした。冷戦後、難民問題が安保理でも大きな課題になり、当時UNHCR (国連難民高等弁務官事務所) 代表だった緒方貞子さんが安保理の場で話をしたのも、時代の流れを象徴する大きな出来事でした。

 もうひとつ別の側面として、冷戦時代は国際社会のアクター・主体というのは、国家および国連機関が中心で、国際法などを論じる時にも国連・国際機関、国家が中心でした。冷戦終結後は、NGO や企業といった民間の組織も国際社会の重要なアクターになり、その存在なしにはいろいろな問題を語れない時代に入っていると思います。またSNSや電子メールが発達した時代です。

 冷戦が終わった直後、私はAAR から紛争下の旧ユーゴスラビアに派遣されました。安全管理という面で言えば、紛争中とはいえ、当時はNGO であること、特に日本のNGO であることが、安全を担保するものでした。日本の国旗、日の丸を掲げて活動したこともあります。旧ユーゴスラビアにおいて、地理的にも歴史的にも政治的にも遠い、日本から来たNGO ということで、私たちの活動は純粋な人道支援とみなされ、中立性を担保できた時代でした。

 しかし、状況は、2001 年の9.11 (米国同時多発テロ事件) を境に一転します。そこからは対テロの時代になったと言うことができると思いますが、9.11 以降、国連・国際機関であること、あるいは外国籍のNGO であること、さらには国籍を問わず、NGO であることが、一部の過激勢力にとって、攻撃理由になります。言い換えれば、NGO であること、人道援助機関であることを大きく掲げることで安全に活動ができた「ハイ・プロファイル」の時代から、外国の組織であること自体を隠さないと安全が担保されない「ロー・プロファイル」で活動する時代になってしまいました。

日本の立ち位置の変化

 AAR ができた1979 年は、第二次世界大戦が終わって34 年しか経っておらず、まだ戦争の記憶が生々しい時代だったのではないかと思います。柳瀬房子会長のお話にあったように、その頃は現金書留の募金が段ボール箱で連日届きました。当時は多くの方々が第二次世界大戦を直接経験され、また相馬雪香先生がそうであったように引き揚げを経験された方が多数おられました。難民であるということが、日本人全体の実体験として非常に身近な時代だったかと思います。

支援物資を積んだトラックの前で女性の難民の方に袋を相馬が手渡している

インドシナ難民に支援物資を手渡しする相馬雪香前会長(左)

 1970年代から80 年代を通じて、日本の海外に対する支援、ODA (政府開発援助) がどんどん増加していき、1989 年にアメリカを抜いて世界一の援助国になった時期もありました。この時代をもう少し振り返ると、「ガリロア・エロア資金」をご存知かと思いますが、これはGARIOA (Gover nment Appropriation f or Relief in Occupied Area)=占領地域救済政府資金、EROA(Economic Rehabilitation in Occupied Area)=占領地域経済復興資金のことで、つまりアメリカの軍事予算の一部を使って旧敵国を支援するための資金なんですね。

 アメリカは1946年から1951 年の6 年間で18 億ドル、今のおカネに換算すると12 兆円を軍事予算の中から日本に支出し、日本はそれをもとに復興を遂げました。つまり私たちの今日はアメリカの大きな軍事計画の一部としてあり、その復興支援が成功し、アメリカ最大の同盟国にもなっている訳です。加えて当時日本には、民間によるララ物資(LARA : Licensed Agencies for Relief in Asia=アジア救援公認団体)、UNICEF (国連児童基金) の脱脂粉乳が届けられ、世界銀行の融資も始まっていました。

 しかし、米国一国が出したガリロア・エロア資金は、こうした国際社会全体の支援総額より遥かに大きく突出していました。その米国を1989 年に抜く援助国になったという事実は、米国の支援もさることながら、日本人一人ひとりがどれだけ頑張ったかということかと思います。雑談ですが、昔ある試験で「日本が戦後、復興を遂げた要因を三つ述べなさい」という設問があり、友人が大まじめで「日本人の努力と忍耐と汗」と書き、正解ではなかったけれど、先生が正答にしたという笑い話がありましたが、でもこれは本当にそうだったと思うんです。

 日本は1989 年に世界最大の援助国になった訳ですが、日本経済の悪化もあって右肩下がりに援助額が減っています。日本が出しているおカネはそれほど変わっておらず、国連への拠出金はアメリカに続いて第2位を占めていた訳ですが、今年度から中国に抜かれて第3位となりました。まだ
肩を並べるくらいですが、もしかしたら中国との差は今後どんどん開いていくのかも知れません。

日本のNGO を取り巻く状況

 次に、日本のNGO を取り巻く状況を見ていきたいと思います。もともとAAR ができた頃は、政府助成金などというシステムは一切ありませんでした。後から制度が追い付いてきたといえます。阪神・淡路大震災(1995 年) を機にNGO が増えて、その年は「NGO 元年」と言われますが、柳瀬さんが「NGO 元年なんてとんでもない!私たちはずっと活動しています」と話されていたのを覚えています。NGOに対する特定非営利活動促進法、いわゆるNPO 法ができたのも、AAR が十数年活動を続けた後のことです(1998 年施行)。

 今日、日本政府は地雷除去に対して多額の資金を提供していますが、この流れを創ったのも私たちだと自負しています。最初は地雷除去におカネを出す仕組みはなく、助ける会がイギリスのNGO ヘイロー・トラスト(HALO Trust) と協力してカンボジアで地雷除去を始めた時は、柳瀬さんがサニーちゃんの絵本『地雷ではなく花をください』を企画し、その印税を全額寄付いただいて、その資金で、地雷を除去していったような時代でした。

 その後、外務省に地雷除去を支援する仕組みができましたが、当初は除去の機材とか車両とかハードの支援のみ。地雷除去にもっとも重要な除去要員の人件費には使えませんでした。その後、助ける会が外務省と協議しながら、地雷除去要員の人件費も助成の対象になりました。NGO の認知度も上がって、「NGO で働いている」と言っても、以前のように「うさんくさい!」と言われない時代になっているのではないかと思います。

砂漠の中で地雷除去装置を使う男性の作業員

アフガニスタンで炎天下の中、地雷除去をする作業員

 他方で残念ながら、昔からほとんど変わらないこともあります。その一つが日本の国際協力NGO 職員の属性の偏りです。例えば欧米では運転手さんが援助車両の運転で現地に行こうとか、大工さんが行くとか、あらゆる層のあらゆる職業の人々が参加しているのに対し、日本は職業の多様性よりも英語ができるかどうかが要件になって、国際協力を担う人材の層が限られているという難点があると思います。

 もうひとつ変わらないのが、一般の皆さまから頂戴する募金の傾向です。自然災害に対しては圧倒的に多くの方々にご理解いただけるのに対し、紛争となると、一般的に自然災害の10 分の1 が集まれば良い方ともいわれます。つまり自然災害で100 万円集めて仕事をしているNGO であれば、紛争では10 万円、自然災害で1000 万円集まる団体では紛争は100 万円と、それくらいの差があります。この傾向は、一般の個人の寄付者の方々よりも企業のご寄付に顕著であるように思います。

 私がジャパン・プラットフォーム(JPF) の代表理事をつとめていたおり、募金のお願いで名だたる企業の方々を訪問しましたが、その際常に言われたことがあります。それは「自然災害であれば日本人は身近に感じるし、被災者の方々におカネを出すことに誰も文句を言わない。しかし、アフガニスタン、イラクといった紛争地の支援におカネを出そうとすると、何か政治的な意図や下心があるんじゃないかと、内外から思われ、お客様だけでなく、社内的にも役員や社員など関係者の理解が得られない。だから紛争地におカネは出せない」とおっしゃるのです。この傾向は今も変わっていません。

 また、日本では募金先としてユニセフ協会や日本赤十字社、赤い羽根共同募金が圧倒的な信頼を得ていて、300以上あるNGO は残りを奪い合っているような状況と言われます。さらに昨今は、海外の本部から潤沢な広報宣伝費が送られて来るいわゆる外資系のNGO が加わり、そうした莫大な広告費を使って集められた募金の一定額が再び広告宣伝費に効率よく使われ、日本生まれのNGO には、まだ太刀打ちできない規模で募金を集めておられるように思います。

 そこに、UNHCR 協会、WFP 協会などの国連機関の日本支部が加わって、日本のNGO に寄せられるご寄付はますます減っていく状況にあるようです。加えて、ソーシャル・ビジネス、社会的企業という新しいタイプの組織も増えていて、皆さまの募金や助成金に頼って国際協力をするAARのようなNGO は、古い団体の代表のように思われることもあるかと思います。

子どもを含む30名のザンビア人が井戸に集まり、井戸水を飲んでいる

ザンビアでは1984年に支援を開始した。井戸から汲みあがった水に喜ぶ地域の人びと

後編につづく

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